Discography

アタリマエへの叛逆
常識を、世界を、疑おう-

「何故だ!」

そんな疑問をあらゆるものに対して向けていくことは、なかなかエネルギーの要るものです。

特に理由を考えずに「そういうもの」として通り過ぎていることがどれだけあるでしょう。

音楽もそうです。気が付けば誰もが「そういうもの」と思うようになった、不文律がたくさんあります。

先人たちの経験によって積み上げられた、たくさんの「いい音楽を作るためのレシピ」は、いつでも私たちを助けてくれます。
私だって、そこから多くを得ています。

でも、ふと思いました。世の中に形骸化したルールというものがあるように、
今となってはどうだっていいことに無意識にこだわっているのではないかと。

ただ漫然と「そういうもの」に従っておきながら、自由に創作をしている気になっている自分というものが、
何だか滑稽に思えてきました。

こんなことでは先人たちはおろか、今の自分を超えていくことだってできないんじゃないか。

そんな危機感に駆り立てられるように、音楽と対峙してきました。

このCDは、音楽の、世の中の「アタリマエ」に対する、私のささやかな叛逆です。
音楽の「アタリマエ」にどれだけ立ち向かえるか、そしてその先にどんな「面白さ」を示すことができるか。

新たな挑戦の、始まりです。

2019/4/28 M3 2019春
第一展示場 B-01a [UtAGe] 1,000円

01. リフレイン形式の検証と発展的解釈について
作詞 / ワクオタカフミ 作曲 / Sebastian 歌 / ハイ

02. 近親調と遠隔調のもたらす効果の比較
作詞 / ワクオタカフミ 作曲 / Sebastian 歌 / 片霧烈火

03. 四度堆積和音による調性音楽への接近
作曲 / Sebastian

Produce / UtAGe
Compose & Piano / Sebastian
Lyrics / ワクオタカフミ
Vocal / ハイ、片霧烈火
Mix&Mastering / Sebastian
Illustration / K.Tachikawa

委託販売 / メロンブックス
委託販売 / とらのあな

◆リフレイン形式の検証と発展的解釈について

所謂ポップスというものには、Aメロ・Bメロがあって、サビで盛り上がるみたいな決まりきった様式があります。

この「主要なメロディ」の前に「前語り」があるという音楽の形式を、「リフレイン形式」といいます。

音楽には様々な形式があります。「ちょうちょう」とか、「荒城の月」とか、前半部分と後半部分に分かれているといえば想像しやすいと思います。これを二部形式(A→B)といいますし、最初のテーマに戻ってくれば三部形式(A→B→A)です。
ビートルズの「Yesterday」とか、「きらきら星」なんかがそうです。

クラシック音楽ではソナタ形式による巨大な音楽(それこそ1時間を超えるような曲とか)が作られたりもしました。リフレイン形式もそういった音楽の形式の一つです。

でも…リフレイン形式だけなんです。なぜか現代ポップスの歌モノのほとんどがこのリフレイン形式の影響下にあります。サビのない曲って想像できますか?

歌モノを作るうえで「サビ」というものが存在することが暗黙の了解であり、それが大前提となっています。

これに反発して「サビのない曲」を作ることはきっと簡単です。ただ、それでいいのでしょうか。サビでの盛り上がりで気分がよくなる、楽曲のイメージを決定づけることができるこの形式は本当に優れているといえます。

Aメロは導入部分、Bメロで雰囲気を変えて次への期待を持たせて、サビで解き放つ。流れとしては完璧です。

そして、この形式にはもう一つ重要なこととして「サビだけ聴いてもどんな曲かなんとなくわかる」ということがあります。

テレビやラジオ、Youtubeから音楽が流れてきて、どのタイミングで、どれくらいの長さ聴かれるかわからないという状況でも、記憶に残すことができるという点でも現代の音楽シーンに適しているといえます。他の形式がいらなくなるんじゃないかと思ってしまうくらいです。

そういったリフレイン形式の有用性は活かしつつ、「ただのリフレイン形式ではないもの」を作れないかと考えました。

当たり前のようにAメロがあって、Bメロがあって、サビがあって…それが音楽のすべてではないはずです。そうではないものをまるで最初から「存在しないもの」として扱われているんじゃないか、そんな疑問が頭をよぎりました。

この楽曲の構成には様々なギミックを組み込みました。

AメロとBメロが逆だったり、最後のサビが実は…

あとは聴いてみてのお楽しみです。

◆近親調と遠隔調のもたらす効果の比較

ハ長調とかイ短調とか…と言えば音楽にそれほど詳しくない方でも「ああ、そういうのあるみたいだね」と思ってくださるのではないかと思います。

こういった「調」は全部で24種類あり、明るい「長調」と暗い「短調」がそれぞれ12種類です。

ある調に近い関係である他の調のことを「近親調」といい、そうでもない調は「遠隔調」といいます。

例えば(ドから始まる)ハ長調から見て(ソから始まる)ト長調は属調なので近親調で、(ラから始まる)イ短調は平行調なのでやはり近親調。(ミから始まる)ホ長調はあまり近い関係とはいえません。

基本的には曲の途中で転調するときも、近い調であればそれほど不自然なことにはなりません。

でも、本来不自然な転調である遠隔調への転調は最近なんだかとても愛されています。

最後のサビだけ高くなる曲、よくありますよね。あれは基本的には不自然な遠隔調への転調です。
とはいっても、不快になるわけではありません。むしろアガります。

ギターという楽器の特性上、最後のサビで上がるというのは演奏の面で不自由が少なく、極めてやりやすい転調だったりします。

理論上の近い遠いという問題と別に、楽器の構造上の都合というのは必ずあって、これによって本来不自然であったものが非常に有効に活用されているともいえます。

ただ、ここまでに私が散々繰り返している「自然さ」と「不自然さ」というものをどれだけ音楽を聴く上で意識することがあるでしょうか。きっと、最後のサビで上がるのが不自然だと言われても、多くの方はピンと来ないと思います。

本来調なんか作る人が分かっていればいいのです。聴きながら「あ、これは○○調だ。お!○○調に変わったぞ」なんて意識する必要はありません。

でも、この自然さ、不自然さを駆使して曲を作れば、調と調の新しい関係が見えてくるのではないか、そう考えました。音楽の楽しみ方も増えるかもしれません。

この楽曲では、24すべての調を使用しています。
また曲の前半ではすべて近親調への「自然な」転調。中盤以降は遠隔調への「不自然な」転調のみを使用しました。変化の起伏を味わっていただければ幸いです。

◆四度堆積和音による調性音楽への接近

音楽を作るうえで「コード」を学ぶというのは絶対に通る道といってもいいでしょう。

コードとは、和音をアルファベットで表したものです。

このコードの流れで音楽をコントロールしているといえます。多くの楽曲がこのコード理論と、その大本となった西洋和声理論に基づいて作られています。

ただ、このコードで表現できる和音、コード理論で作られる音楽が、実はとても限定されていることはあまり知られていないのではないでしょうか。

例えばドミソの和音は”C”と表わすことができます。ドとミ、ミとソはそれぞれ三度の関係です。ドから見てミは3つ目の音なので、三度です。

そう。基本的にコードで表せるのはこの「三度の関係」の和音です。2曲目のライナーノーツに書いたような24種類の調の音楽は、普通はこれらのコードで表現できます。

でも実際には、こうしたコードで表現できない種類の和音を使っている曲だってたくさんあります。
四度堆積和音もその一つです。
ドファシのように四度の関係の音を積み重ねていった和音です。

これはコードで表現することが想定されていませんし、そもそもこれを使って曲を作れば調性から離れてしまいます。いわゆる無調の曲になったり、24種類の調以外の音階(教会旋法など)を使う曲になることが多いです。

このような曲も実際にはたくさんあって、現代ジャズで四度堆積は多用されていますし、例えばセーラームーンの変身シーンの冒頭なんかまさに四度堆積です。ほかにも映画やゲームなどでは山ほど使われています。でもやっぱり、調性とは違うルールで作られています。

大体にして、何でもコードを前提に考えすぎなんです。Am→F→G→Cって書くだけでわかってしまう人は、きっとこれを読めば、愛のパズルを抱いてくれます。

コードというものが「そもそもある」ことから音楽がスタートしているなら、使いつくされた決まりきった進行がこれからも使われ続けるでしょうし、新しく生み出されたパターンだって同じように使い古されていくのです。

かといって、コードから解き放たれ過ぎると今度はルールなしのフリースタイルバトルです。ルールのあるところにこそ本当の自由があるのです。

そこで、四度堆積和音で調性音楽を表現できないか。そう考えました。

重ねている音の関係が違うのでどうしても「ハズれた」音が鳴ってしまいます。でもそれを活かしつつ、四度堆積特有の「ふわふわ感」を前面に出して。かといって調性を完全に失うことなく。